2005年09月15日

古琉球人物列伝(4)南山王と群雄たち

古琉球人物列伝(4)南山王と群雄たち
今回は三山のひとつ、南山王と南山で活躍した群雄たちを紹介します。

南山は他の二山とちがって突出した権力がなく、まさに按司連合政権といった感があります。南山は大里グスク(大里村)を拠点とする島添大里按司と南山グスク(糸満市)を拠点とする島尻大里按司の二大勢力で構成されていたと考えられます。考古学によるグスク時代の遺物調査からも、沖縄南部地方は島尻地方と島添地方の二つのグループに区分することができるそうです。そのほか、八重瀬按司であった王叔の汪英紫や、久米村出身の華人ながら南山の按司でもあった李仲(古琉球人物列伝(2)で先述)の存在も注目されます。

一般的に南山王の居城は南山グスク(糸満市)とされていますが、「島添(しまおそい)大里」の地名には「浦添」と同じように「シマジマを襲う(支配する)」という意味があり、大里グスクが南山の中心となっていた時期があった可能性が高いといえます。初期の南山王承察度(うふさと)は島添大里按司で、佐敷の思紹・尚巴志による大里グスク陥落の後は島尻大里の南山グスクが南山の中心になったものの、思紹・尚巴志により領域の半分(後の東四間切)を削られた南山は著しく弱体化したと考えられます。

南山では権力の分散傾向から王位をめぐりクーデターが多発します。承察度から汪応祖、汪応祖から他魯毎の政権交代は、全てクーデターによるものです。南山には王のほか王叔の汪英紫や承察度の弟達勃期などの実力者もおり、そのほかの按司たちも王位争いに様々に関与していたはずです。このような群雄割拠の状況が、佐敷按司の思紹・尚巴志たちを台頭させる土壌となったかもしれません。南山と思紹・尚巴志との関わりはまたの機会に述べるということで、次に南山の人物を紹介していきます。

【南山王の系統図】

┏大里按司━━┳(1)承察度━承察度
┣汪英紫     ┣達勃期━三五郎尾
┗函寧寿     ┗(2)汪応祖━(3)他魯毎
    
◆承察度(しょうさっと)
南山王。うふさと(大里)ともいう。大里グスクを本拠にする按司で『おもろさうし』に登場する「下(しも)の世の主」にあたる。1380年(洪武13)、南山王として中山王察度に次いで明への入貢を果たす。1398年(洪武31)、中山王に追われて朝鮮へ亡命(記録には温沙道=ウフサトと記される)。承察度はその年に朝鮮の地で死去している。彼の亡命は中山王武寧が南山の汪応祖を支援してクーデターを起こしたことによるものか。しかし、もう一つの可能性として思紹・尚巴志によって大里グスクが攻略された結果、島添大里按司(=南山王承察度)が朝鮮に逃亡したとも考えられる。思紹・尚巴志が大里按司を滅ぼした年は1402年とされるが、これは数百年後に編纂された歴史書を根拠としており、確かではない。実際にはこれより早い1398年だったのではないか。そして南山王の空位によって豊見城按司の汪応祖が島尻大里グスク(=南山グスク)で新たな王位についたとも考えられる。

◆汪英紫(おうえいし) 
承察度の叔父。えーじ(八重瀬)ともいう。東風平の八重瀬按司か。1388年(洪武21)、弟の函寧寿とともに明へ朝貢し、以来何度か使節を派遣している。承察度と並ぶ実力者だったと考えられる。

◆函寧寿(かねし) 
汪英紫の弟。1388年、汪英紫とともに明へ朝貢。

◆汪応祖(おうおうそ) 
南山王。承察度の弟。豊見(とよみ)グスクの按司と伝わる。クーデターにより承察度を追放して「下の世の主」の地位に就く。1403年(永楽元)、王弟として明へ入貢、翌1404年には南山王に封ぜられた。1415年(永楽13)、兄の達勃期によって殺された。

◆達勃期(たぶち)
汪応祖の兄。1415年、クーデターにより南山王の汪応祖を殺して王位に就こうと試みるが、これに反対する南山の按司連合軍の攻撃にあって自滅。彼は自分を差し置いて弟(汪応祖)が王となったのが許せなかったのだろうか。

◆他魯毎(たるみぃ)
最後の南山王。名前は太郎思い(たるもい)か。汪応祖の世子。1415年、達勃期によるクーデターが鎮圧された後、南山の按司連合によって擁立された。1429年(宣徳4)、中山王尚巴志によって滅ぼされた。他魯毎は尚巴志の長男であり、南山は尚巴志の傀儡政権であったとする説もある(尚巴志の長男は誰か不明であり、他魯毎が“太郎思い”の当て字であることから)。

◆三五郎尾(さんぐるみぃ) 
南山王承察度の甥という。達勃期の子か。1392年(洪武25)南京国子監に留学し、1411年(永楽9)頃まで30年近く在学した。国子監での待遇は他の官生と比べ格段に高い。帰国後は中山王思紹の使者として活躍した。対立する中山へ転身した理由は、南山でクーデターを起こした父の達勃期が滅び、南山で後ろ楯がいなくなったためであろうか。

◆実他魯尾(したるもい)、賀段志(かだんじ)
南山の按司。支配地は不明。

◆その他家臣(読みは推定)
師惹(しじゃく)、耶師姑(やしぐ)、南都妹(なんとみ)、不里(ふり)、呉堪弥(うかや)、渥周(うじょう)、泰頼(たいら)、阿勃吾斯古(うふぐすく)、乃佳吾斯古(なかぐすく)、吾是佳(ぐしかわ)、阿勃馬(うばま)、謂慈悖也(えすぶや)、安丹(あだ)、歩馬(ぶま)など。


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この記事へのコメント
こんにちは。小島@編集です。
まれびともふと気づくと1万7000を越え、びっくりです。
ご来訪感謝です。

さて新しいエピソードをUPした解説前にぼんやり打っております。
南山は結構面白い感じなので個人的にも好きですね。

> 「島添(しまおそい)大里」の地名には「浦添」と同じように「シマジマを襲う(支配する)」という意味があり、大里グスクが南山の中心となっていた時期があった可能性が高いといえます

うらおそい、しまおそい、港湾と諸島の支配拠点を思わせる言葉です。この両方を押さえた方が勝つんだ、という。

> 中山王に追われて朝鮮へ亡命

『グスクの海』ではこの辺でワカウビが出てくるらしい、、、です。
単純にオオサト親子として把握してみようかしらん。

年代については遊びがきく部分ですね。初心者がわかりにくいのは、たぶん、承察度━承察度と何でふたり同じ名前のひとがいるんだろう、とか、その辺でしょうか。1398年に亡命した温沙道と、1402年に思紹・巴志に敗れた島添大里按司を同じ人物と捉えるか、そうでないと考えるかで話しが全く変わってきますね。遊べそう。

> ◆汪応祖(おうおうそ) 

結構、難しいのは地元で何て呼ばせようかな、とか。この人は、ヤフス、と読んだりすることもあるらしいですが。ショウサットもそうですけど、沖縄ではオウオウソとは呼び合ってなかったと思うのですよね。結構その辺が難しい。

> ◆達勃期(たぶち)

どうしても「いしいひさいち」を思い出してしまいます (^-^、
がんばれ。

> ◆他魯毎(たるみぃ)

「グスクの海」既存の読み仮名では「タロマイ」と読ませています。何かタタロイモの様で南国的だと密かに思っていたり。笑。“太郎思い”はまた面白いですよね。統一前、最終的に長男と対立、となるとこれもまたドラマティックです。権力委譲となると、在地勢力の汪応祖の太郎(長男)であると考えるのが素直なのでしょうけれども。

> ◆三五郎尾(さんぐるみぃ) 

こちらは。“三五郎思い”でしょうか。何かこう毛づくろいしたくなる様な名前ですね。と、書いて、グルーミングに気づいてくれる賢明な方はおられるのでしょうか。泣。

と、そんなところです。実他魯尾(したるもい)も名前を見てると何か面白そうですけどね。個別のセリフ例みたいなものはまた遊んでみたいと思います。
Posted by 小島 at 2005年09月15日 16:06
汪応祖は沖縄風の名前を漢字に当てたものでしょうね。
明に朝貢して自分を紹介するときに例えば「私はシタルミィ(したるもい)です」と言ったのをおそらく記録官か誰かが中国語で「実他魯毎(shi ta lu mi)」と書きとどめたと思います。中国語は表音文字がありませんからね。

汪応祖の読みも「えーじ(八重瀬)」で汪英紫の子と考える人もいますが、はっきりしたことはわかりません。

それと、中山王の項目でティポヌを昭帝の次男としましたが、正しくは天元帝(ウスハル・ハーン)の次男です。すみません、訂正しました。
Posted by とらひこ at 2005年09月16日 23:48
別件の通り体調不良でお返事遅れてすみません。

本件了解です。
個人的にはモイ(思い)が名前になるというのが嬉しいですね。
ウムイもありえるかなという。
Posted by kojima at 2005年09月20日 14:58
そうそう、Mikeさんが

「15世紀当時の信仰状況を通覧できる様な本はありますか」

みたいなこと言ってたの思い出しました。
※Webで見ると疲れるそうなので。

何かいい本があればここにコメント入れておいて下さい。
写しで伝えます。

Posted by kojima at 2005年09月20日 17:10

と、あとテダがシュリ・グスクに入場後に与えられる部屋で妥当な場所と、彼女が寝かされる寝台の描写に参考になる資料がありましたら宜しくお願いします。

―と、本格的に時代考証ぽくなってきました(^^。
歴史ものってタイヘン。
Posted by 質問です。 at 2005年09月20日 17:28
15世紀頃の信仰状況についてですが、史料がほとんど残っていないため研究自体がなく、ご希望の本はないと思います。ただし朝鮮の琉球に関する記録には15世紀中頃の信仰について書かれています。今詳しい資料に当たれる環境にないので、後ほどお知らせします。

首里グスクでテダが入れそうな、最も可能性のある場所はおそらく御内原(おうちばる)と呼ばれる大奥でしょうね。ただしこの御内原についても15世紀の状況はおろか、近世についてもよくわかっていません。

寝台については、これまたさっぱりなのです…第一尚氏は中国の影響を強く受けていますので、想像ですが若干中国テイストを入れた建物の内装に寝台でいいのではないでしょうか。中国の紫禁城にある寝台なんかを参考にされるといいかと思います。
Posted by とらひこ at 2005年09月22日 01:22
了解です。ありがとうございます。
かなり想像の入る余地ありですね。
Posted by kojima at 2005年09月22日 10:39
横レス失礼致します。

ワカウビ関連については、琉球よりも、韓国関係の本から当たっていただくことをお勧めします。
韓国の歴史よりも、韓国の生活風俗全般についてですね。
特に韓流ブームの現在出ている、韓国特集本などがお勧めですね。

とらひこさんの言うとおり、琉球側に朝鮮関係の記述が殆どないので、
ここは、韓国側から当たられた方がいいと思います。

特に諸問題を解き明かすキーワードは、琉球・韓国の両国の生活・風俗の
違い、共通点ですね。

特に共通点は、それが、いつ琉球にもたらされたか、それを知ることが両国通行の歴史を解き明かす鍵になるのではないでしょうか?

私が、第二部のプロットを執筆中、疑問に思ったのは、例の万国津簗の鐘にある名文で「三韓の秀を集め」とありますが、これが、なぜ、当時の国号「朝鮮(チョソン)」ではなく、また、この少し前に滅びた「高麗(コリョ)」でもなく「三韓」なのか、このあたりですね。
一説によると、百済時代の朝鮮半島と琉球間に交流があったということですから、あるいは今日、知られる歴史時代以前に何らかの交流があったともいえるかも知れません。

当時の韓国と琉球の共通点は、やはり同じ時期に血なまぐさい政変と戦乱を経て、強力な統一国家が誕生し、それらが、それまでの中国の影響を断ち切って、独自の文化を創ろうと努力した点にありますね。
韓国ではハングルの発明。
琉球では平かなを基調とした辞令文、
といったところでしょうか。

小島さんの意見にもあったように、私がテキスト執筆中、意識していたのは、
それまで、日本本土、中国、韓国、東南アジア、インド、果ては中東、西ヨーロッパの影響を受け、文化的に混沌としていた琉球が、テダの生きている間、約5世代の試行錯誤を経て、琉装や三線などの独自文化を確立する姿でした。

戦後の日本が全くのアメリカ文化のデッドコピーであったのにくらべ、
当時の琉球の人々の努力には頭が下がる思いです。



Posted by 元製作委員 at 2005年09月23日 23:47
コメントありがとうございます。
お仕事タイヘンみたいですけど、元気でやっていますかー。

この辺はとらひこさんにコメントいただいた方がいいかもですね。
小島は雑事に追われて韓国関係、資料に当れていません。

名前はややこしくなるので先日のお電話通り歴史談話室でいいですよ^^。
テキストの方も再編集、写真、音楽の選定。ウィキペディア等のリンク活用を考えると作業量にクラクラです。ごゆるりとお待ち下さい。
Posted by kojima at 2005年09月24日 10:26
恥ずかしながら韓国そのものについては僕はそれほど知らないのですが、琉球の対朝鮮通交に関しては後日あらためて書きたいと思っています。

対朝鮮通交は前述の12世紀頃の高麗系陶器のカムィヤキと高麗瓦から確認できますが、三山時代の朝鮮通交は直行ルートよりもむしろヤマトを介するかたちで行われていたようです。とくに博多商人や対馬の勢力が深く関わっています。

万国津梁の鐘の表現については、梵鐘の銘を起草したのがヤマト禅宗の影響を受けた禅僧、そして鋳造者がヤマト鋳物師であることが鍵になると思います。
Posted by とらひこ at 2005年09月28日 01:24
回答ありがとうございます。
最近メルチェックしておらず発見が遅れました。
陳謝。

そういえば法政の香取さんから「沖文研で会えませんでした」お電話が私のほうにありました。あまりアポイント調整親切でない私なので(難)、まあそのうちに。

私のほうは調査対象99世帯を抱えて脳みその使い分けがうまく出来ておりません。よってフリーズ。個人情報外のところで感想など後日にでも書いてみたいと思ってます。世の中色んな人がおりますね。

さて、歴史さんのいう百済時代の朝鮮半島と琉球間の交流、というのはまああって当然なのではないかと思います。

梵鐘の銘を起草したのがヤマト禅宗の影響を受けた禅僧、であることがチョソンではなく「三韓」の銘記に繋がるという因果関係については、恥ずかしながら愚生にはよくわかっておりません。暇な時にでも解説していただけると幸いです。ではまた。
Posted by 小島 at 2005年10月03日 17:11
禅僧と「三韓」表記との因果関係がどうなっているのかについては、いまだ明らかになっていません。そもそもこの梵鐘銘じたいも詳細な研究がなされていないと思います。

万国津梁の鐘の銘文は、「琉球国は南海の勝地にして云々」のところだけが注目されていますが、実はその表記は全体のごくわずかです。あとはずっと仏教的言辞がつらつらと述べられています。あの梵鐘銘文は、琉球の仏教興隆を述べたものなのです。

つまり、「三韓」表記を解明するには、梵鐘の銘文全体と鋳造のいきさつ、過程、そして製作者など総合的に分析して判断する必要があります。

そう考えた際に、まず起草者は禅僧、製作者はヤマト鋳物師ということで、彼らの影響を考慮しなくてはならないと思います。そのために同じ時期に作られた琉球梵鐘との比較、そして当時の禅僧が学んでいたところの思想や五山文学などが起草文にどのような影響を与えたかなどを考えることが鍵になる、という意味でコメントした次第です。

…と少々込み入った話でしたが、学術的にはこう考えてしまうわけです。まあこの問題はいまだ解明されていないものなので、様々な可能性を考えることは解明の糸口を見つけるためにも重要ではないかと思います。
Posted by とらひこ at 2005年10月04日 19:09
なるほど、了解です(^-^。
Posted by 小島 at 2005年10月05日 19:45
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