2005年10月07日
質問です。

ちょこっと質問です。
現在編集中の「テダ、シュリ・グスクに入城する」篇でいくつかグスク内の場所が出てくるのですが、何処に特定すべきか遥さんが悩んでおります。例えば、、、
・巴志が息子の忠に辞令書の書き方を教える「執務所」
→私見:北殿の一室か?内部の構造は?二階とか、個室があるとうれしい。
・思紹が懐機、護佐丸らとやりとりする「王間」
→私見:正殿の玉座か?しかし、書物がいっぱいという既存のテキストに倣うとオウチバルの二階殿、書物蔵の辺りで会話するのが適当か? 内密の話をするのに相応しい場所は? オウチバルの金蔵とは、金庫のこと?
・シュリ・グスク内の懐機の部屋
→私見:模型がいっぱいのかなり楽しげな部屋なので、狭くても個室希望。書物の貸し借りを思紹とよくやっている様なので、二階殿あたりで思紹と近しい場所にあるのが良さそう。二階屋なら一階に懐機、二階に思紹とか。ふたりしてよく行き来する楽しげな関係。
・テダの寝所
→私見:候補がオウチバルの世添殿、世誇殿、女官居室とある。先に、前二者の機能の違いがよくわかっていないので解説など希望。なんとなく、世添殿が良さそうではあるが、世誇殿は女官居室、すなわち目付けのカマドゥの居室と近しいので機能的には良さそう。また前者だと、王家の后を描写する必要がありそう。そういえば、思紹・巴志の奥さんの名前は何だろう。思紹の姉、馬天神女の居場所も特定しておかないと。
一応、現在の首里城の構造を基礎に考えているのですが、アイデアを頂けると嬉しいです。

Posted by テダ at 12:47│Comments(5)
│話の流れ
この記事へのコメント
首里城については尚巴志の話が終わってから書こうと思っていたのですが、先に簡単に説明しますね。
15世紀頃の首里城は、現在確認できる首里城の構造とはちがうものです。
北殿や二階殿、世添殿、世誇殿などは全て近世期の建築なので、15世紀尚巴志の時代にも存在した保証はありません。
しかし、15世紀頃の首里城は、海外に残る琉球についての見聞録や発掘調査によって、だいたいの姿が想定されています。
まず首里城は内城・中城・外城の三重構造になっていて、内城には三層の閣と回廊式の建物がありました。板葺きで建物には錫などの金属製の顔料が塗ってあったといいます。今の正殿・南北殿・奉神門が御庭を囲む構造はこの時すでにできあがっていたようです。
三層閣(正殿に相当)の上層は宝物を所蔵する倉庫、下層は宴会や会合を行う謁見の間、そして中層は王の住む日常空間で、王に従う侍女がいたといいます。
王は常にこの三層閣にいて降りてこず、侍女を介して命令を伝えていたということです。王の護衛には女たちが武器を持ってついていたともあります。
第一尚氏期の王宮において女性の力が強かったことがうかがえます。
回廊式の建物と中城には武装した兵士が常駐しており、外城には倉庫・厩が
あったようです。また外城には執政人(王弟・大臣)の在所がありました。首里城での懐機の居場所は独立した殿舎を与えられていたのでしょうか。
御内原についてですが、発掘調査では尚巴志の時代にはすでに南向きの建物跡があったことがわかっています。
世添御殿:王夫人が居住。ここで御家原全体を管理した。
世誇御殿:王女の居室。世添御殿と廊下でつながり、国王死去の際には世子の即位式が行われた。
女官居室:あむしられ(女官)の居室が世誇殿の隣にあった。
いちおうこのような感じだったみたいですが、尚巴志の頃の構造ははっきりわかっていないので、現在の首里城をそのまま参考にされるか、もしくは自由に場所を設定してもいいと思います。
15世紀頃の首里城は、現在確認できる首里城の構造とはちがうものです。
北殿や二階殿、世添殿、世誇殿などは全て近世期の建築なので、15世紀尚巴志の時代にも存在した保証はありません。
しかし、15世紀頃の首里城は、海外に残る琉球についての見聞録や発掘調査によって、だいたいの姿が想定されています。
まず首里城は内城・中城・外城の三重構造になっていて、内城には三層の閣と回廊式の建物がありました。板葺きで建物には錫などの金属製の顔料が塗ってあったといいます。今の正殿・南北殿・奉神門が御庭を囲む構造はこの時すでにできあがっていたようです。
三層閣(正殿に相当)の上層は宝物を所蔵する倉庫、下層は宴会や会合を行う謁見の間、そして中層は王の住む日常空間で、王に従う侍女がいたといいます。
王は常にこの三層閣にいて降りてこず、侍女を介して命令を伝えていたということです。王の護衛には女たちが武器を持ってついていたともあります。
第一尚氏期の王宮において女性の力が強かったことがうかがえます。
回廊式の建物と中城には武装した兵士が常駐しており、外城には倉庫・厩が
あったようです。また外城には執政人(王弟・大臣)の在所がありました。首里城での懐機の居場所は独立した殿舎を与えられていたのでしょうか。
御内原についてですが、発掘調査では尚巴志の時代にはすでに南向きの建物跡があったことがわかっています。
世添御殿:王夫人が居住。ここで御家原全体を管理した。
世誇御殿:王女の居室。世添御殿と廊下でつながり、国王死去の際には世子の即位式が行われた。
女官居室:あむしられ(女官)の居室が世誇殿の隣にあった。
いちおうこのような感じだったみたいですが、尚巴志の頃の構造ははっきりわかっていないので、現在の首里城をそのまま参考にされるか、もしくは自由に場所を設定してもいいと思います。
Posted by とらひこ at 2005年10月07日 20:13
>巴志が息子の忠に辞令書の書き方を教える「執務所」
第一尚氏期の建物を参考にするなら正殿の中層の一室、ということになるでしょうか。近世首里城の南殿裏には、書院があり、国王の執務所でした。
>思紹が懐機、護佐丸らとやりとりする「王間」
正殿玉座の御差床(うさすか)でしょうか。書物というなら前述の書院ですね。
>シュリ・グスク内の懐機の部屋
第一尚氏期を参考するなら外城の「執政人在所」。しかし思紹とやりとりというなら思紹が正殿の中層、そして懐機が今の南・北殿にあたる回廊式建物でしょうか。建物が連結されているので、頻繁に行き来できるはずです。
ちなみに近世期では国王の住居は正殿と書院などとつながった金御殿(くがにうどぅん)でした。
>テダの寝所
女官居室か、テダが特別視されるなら王女の住む世誇御殿の一室などは。
王妃や馬天ノロについてはよくわからないので調べてきます。
第一尚氏期の建物を参考にするなら正殿の中層の一室、ということになるでしょうか。近世首里城の南殿裏には、書院があり、国王の執務所でした。
>思紹が懐機、護佐丸らとやりとりする「王間」
正殿玉座の御差床(うさすか)でしょうか。書物というなら前述の書院ですね。
>シュリ・グスク内の懐機の部屋
第一尚氏期を参考するなら外城の「執政人在所」。しかし思紹とやりとりというなら思紹が正殿の中層、そして懐機が今の南・北殿にあたる回廊式建物でしょうか。建物が連結されているので、頻繁に行き来できるはずです。
ちなみに近世期では国王の住居は正殿と書院などとつながった金御殿(くがにうどぅん)でした。
>テダの寝所
女官居室か、テダが特別視されるなら王女の住む世誇御殿の一室などは。
王妃や馬天ノロについてはよくわからないので調べてきます。
Posted by とらひこ at 2005年10月07日 20:30
大事な点をひとつ、忘れていました。
今後の王朝実録でも述べるつもりでしたが、
第一尚氏王朝の王城は、実は首里城だけではありませんでした。
島添大里グスクがそうです。15世紀中頃には、国王は首里城と南の王宮をしばしば行き来していたという記録があります。尚泰久の時代まで大里グスクが使用されていたことは、「大里城の雲板」から明らかです。
思紹・尚巴志は大里グスクを滅ぼした後、大里グスクを本拠に定め、その後首里城を王宮とした後も大里グスクを廃棄せず、そのまま使い続けたのです。
今後の王朝実録でも述べるつもりでしたが、
第一尚氏王朝の王城は、実は首里城だけではありませんでした。
島添大里グスクがそうです。15世紀中頃には、国王は首里城と南の王宮をしばしば行き来していたという記録があります。尚泰久の時代まで大里グスクが使用されていたことは、「大里城の雲板」から明らかです。
思紹・尚巴志は大里グスクを滅ぼした後、大里グスクを本拠に定め、その後首里城を王宮とした後も大里グスクを廃棄せず、そのまま使い続けたのです。
Posted by とらひこ at 2005年10月07日 21:42
またまたすみません。
前のコメントに世添御殿、世誇御殿とあるのは、正しくは世添殿、世誇殿です。訂正します。
前のコメントに世添御殿、世誇御殿とあるのは、正しくは世添殿、世誇殿です。訂正します。
Posted by とらひこ at 2005年10月09日 19:10
ども、小島です。
仮にWeb復帰しております。
懇切な解説に感激しております^-^v
エピソードUP後なのですが、参考にしてみますね。
ではでは。
仮にWeb復帰しております。
懇切な解説に感激しております^-^v
エピソードUP後なのですが、参考にしてみますね。
ではでは。
Posted by 小島 at 2005年10月13日 12:47
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