15世紀頃の北方〈エゾ〉世界(2)

テダ

2006年03月08日 01:23



琉球で尚巴志たちが活躍していた時代、北方では「日之本将軍」の安藤盛季(もりすえ)と子の泰季(やすすえ)が強大な勢力を誇り、十三湊も全盛期を迎えていました。盛季・泰季親子は京都の足利将軍や若狭の寺院に莫大な銭や北方の物資を寄付していました。交易の富が安藤氏を隆盛に導いていたことがわかります。

しかし1432年(永享4)と1442年(嘉吉2)、安藤盛季・泰季は糠部(青森の東側)の南部氏に敗れ蝦夷が島へ没落。その後も失地回復をめざすもののかなわず、十三湊安藤氏の嫡流は断絶してしまいます。南部氏は傍流の安藤師季(もろすえ)をカイライとして下北半島の田名部に擁立し、北方海域のターミナルは田名部湊に移ることとなります。やがてカイライの地位に不満であった師季は蝦夷が島へ渡海、後に秋田の檜山に拠点をかまえ再起します(秋田安東氏)。

蝦夷が島の南岸部には館(たて)という和人の城塞が築かれ、秋田安東氏のもとに3つのグループに編成されていました。館は琉球でいえばグスクに相当します。グループの長は守護といい、上之国守護・下之国守護・松前守護が各館主をたばねていました。館主はちょうど琉球の按司、三守護は三山のようなかたちでしょうか。安東氏は蝦夷地を間接的に支配したのです。15世紀中ごろの勢力図は次のとおりです。

                   ┏「上之国守護」蠣崎季繁━館主
「檜山屋形」安東尋季━╋「下之国守護」安東家政━館主
                   ┗「松前守護」安藤定季━館主

ただし和人たちは館という「点」を掌握していたにすぎませんでした。蝦夷地は和人とアイヌが雑居する状態で、両者は対等の存在であったのです。道南各地に割拠する館主は互いに同盟・対立を繰り返し、館主とアイヌ人首長が同盟を結ぶ場合もあったようです。

1456年(康正2)、アイヌの少年が和人に殺害された事件をきっかけに東部の酋長コシャマインが蜂起、東部アイヌの軍勢が和人の館を襲いました。和人の館は次々に陥落し、12あった館のうちわずか2つを残すばかりとなります。アイヌが決して和人の下位に甘んじるような弱い存在ではなかったことがわかります。この和人側の苦境を救ったのが花沢館主蠣崎(かきざき)季繁の客将、武田信広です。信広が放った矢がコシャマインに命中、これを契機にアイヌ勢は総崩れとなり、和人側は辛くも危機を脱しました。この功績により信広は蠣崎家を継ぐことになります。これが近世大名、松前氏の元祖です。
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