尚巴志の野望(3)

テダ

2006年06月09日 08:36



南山の中心ともいうべき島添大里を手にした思紹・尚巴志親子は、知念半島一帯を領有する一大勢力にのし上がります。次に尚巴志は中山に狙いを定めるわけですが、一見無謀に思えるこの試みはどのようにして行われたのでしょうか。
中山は浦添グスクを拠点に沖縄中部を支配する三山のなかでも最強の勢力でした。国際貿易港の那覇を有し、その土地も肥沃で、他の北山・南山と比べて圧倒的な優位を保っていました。浦添グスクは当時琉球最大の規模を誇っており、城下には寺院や王陵、人口池、家臣たちの居宅が並び、トップレベルの技術者集団も住む、琉球の首都の様相を呈していました。中山王の武寧は1404年(永楽2)、明朝から初めて正式な王として任命(冊封)され、その権威はますます大きくなっていました。

中山王の配下には那覇久米村の華人集団がおり、彼らを中心に明朝の王府組織を模倣した官僚機構がある程度整備されていたとみられます(王府組織についてはこちらを参照)。中山の宰相として「王相」の亜蘭匏(あらんほう)、「長史」に程復・王茂がいました。中山は南山内部の抗争に乗じて島添大里の承察度を失脚させて朝鮮に追い落とし、さらに南山全体もうかがう勢いでした。近世の史書では、この頃の中山は人民を苦しめ、王の武寧はおごり高ぶっていたため、尚巴志がこれを討ったとしています。しかしこれは「勝者から見た歴史」です。中山の状況を見るかぎり、表面上では政権が崩壊するような兆候はうかがえません。

では、尚巴志はどのようにして琉球最強の中山を打倒したのでしょうか。その背景として、中山政権の中枢にいた華人集団たちの対立があるように思います。王相や長史といった華人たちは王府の要職にありながら、那覇の独立勢力・久米村の華人組織にも属していました。久米村は明朝への朝貢や対外貿易を担当する貿易集団でもあり、彼らが琉球の現地権力に協力していたのは、琉球に属することによって、海禁制度のなかで堂々と貿易活動ができたからです(こちらを参照)。おそらく久米村のなかで中山王武寧と結びつき貿易利権を独占した亜蘭匏グループと、王茂をリーダーとする久米村の新興グループとの路線対立が、中山武寧政権が崩壊する伏線としてあったと考えられます。

というのは、思紹・尚巴志が中山を奪取した後、王相の亜蘭匏は歴史上から姿を消し、代わって王茂・程復を王相兼長史にするよう、思紹によって明朝に推薦されているからです(程復は引退して故郷へ帰ったので、名目上の王相兼長史となる)。これは亜蘭匏の王相更迭と、思紹・尚巴志を支援した王茂らの論功行賞の意味あいがあったように思います。

華人集団と尚巴志たちとの関わりは、佐敷按司時代にはそれほど深くなかったと考えられます。何といっても琉球全体の交易活動を事実上一手ににぎる那覇久米村が、片田舎の一按司と深くつながるメリットがほとんどないからです。尚巴志が南山王承察度を打倒して、はじめて王茂ら久米村の新興グループは、武寧・亜蘭匏政権を倒しうる存在として注目することになったはずです。尚巴志と結びつき新たな政権をつくりあげ、そのもとで貿易集団としての久米村の主導権をにぎる、そのような意図を持って大里按司となった思紹・尚巴志に接触を試みたのではないでしょうか。後の第一尚氏政権で王相となる懐機も、王茂を助ける若き同志としてこの新興グループに属していたとみられます。
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