尚巴志の野望(1)

テダ

2006年04月27日 21:58



ここまで「グスクの海」の時代を理解するための前提をお話ししてきましたが、いよいよ本編の尚巴志の琉球統一までの戦いを紹介していこうと思います。
中山王として琉球王国を樹立した尚巴志(しょうはし)はもともと南山の佐敷を本拠地にする按司でした。後に姓が尚、名が巴志とされますが、これは中国側が勝手にそう解釈したもののようです。というのは、この時期の琉球人の名前は中国式ではなく、後に童名(わらびなー)として残る琉球式の名前しかなかったからです。例えば他魯毎は「太郎思い(たるもい)」、帕尼芝は「羽地(はねじ)」というようにです。尚巴志は身長が150センチ足らずで、「佐敷の小按司」と呼ばれていました。尚巴志とは「小按司(しょうあじ)」、あるいは「サバチ」という名前を当てたものと考えられます。神号は「勢治高真物(せぢだかまもの)」。“霊力高く畏怖尊敬される者”ぐらいの意味でしょうか。

父は思紹(ししょう)。「シチャ」の当て字とも。巴志に対して「佐敷の大按司」とも呼ばれました。神号は「君志真物(きみしまもの)」。伝承によると、もとは苗代大親(なえしろ・うふや)と呼ばれ、妹は馬天祝女(ばてんノロ)であったといいます。思紹の父は伊平屋島出身の鮫川大主(うふぬし)。神託により南山へ移り、そこで大城按司の娘と結婚して生まれたのが思紹とのことです。伝承の真偽は置いておくとして、14世紀後半には思紹・尚巴志親子が佐敷を拠点に勢力を持つ按司だったことは確実です。

最大の謎は、南山の小さな勢力だった佐敷按司がなぜ王位を狙うほどに強大化したかということです。佐敷グスクは山の中腹に平場を造成して4段の郭をつくり、主に土塁で防御する比較的小さいグスクです。とても琉球を統一できるほどの力があるとは思えません。しかし、佐敷は14世紀後半あたりから強大な勢力となれる数々の有利な条件にめぐまれていくのです。まずは尚巴志個人の軍事的才能が優れていたことがあげられるでしょう。思紹という父の存在がありながらも、統一事業はほとんど尚巴志の主導で行われています。琉球統一は尚巴志という存在があって初めて成り立ちえたといるのではないでしょうか。

さらに沖縄島中南部の東海岸における農業生産の違いが、他地域との「国力」の差を生んだのではないかという説があります。それまで東海岸は農業後進地帯でしたが、この頃から「水稲二期作」という新方式がこの地域に導入され、豊かな水田地帯へと変貌したのです。

そしてこの「国力」を背景にしての対外貿易の推進。佐敷グスクの眼下に広がる海は湾状になっていて、港湾拠点の馬天港は天然の良港でした。この地理的有利を生かして積極的な貿易に乗り出すことができたと考えられます。その事実は尚巴志がヤマトの貿易船から鉄を買い、領民に分け与えたとする伝承からもうかがえます。当時の鉄器は沖縄では産出しない貴重品。現代でいう「レアメタル」のような存在です。その希少品を惜しげもなく与える経済力が佐敷按司にはあったということを意味しています。
関連記事