15世紀頃の北方〈エゾ〉世界(3)

テダ

2006年03月21日 22:19



コシャマインの討死によって、ひとまず大きな戦いは終息しましたが、和人とアイヌの争いはその後100年にわたって続いていました。アイヌの軍勢は近隣の村々をやぶり、多数の和人(シャモ)を殺害したといいます。蝦夷が島の和人たちは劣勢に立たされ、勢力範囲も上之国、松前周辺に縮小していました。
しかし先述したように、蝦夷が島の戦乱は《和人》対《アイヌ》という完全な二項対立だったのではなくて、和人とアイヌは雑居し、場合によっては同盟を結ぶこともあったようです。コシャマインを討ち取った蠣崎信広(武田信広)は上之国の勝山館を拠点に和人勢力の掌握に乗り出します。蠣崎氏のライバルは松前守護の安藤氏(のち守護代の相原氏)でしたが、拠点であった松前大館はやがて蠣崎氏の軍勢に攻略されます。この攻略が成功した要因には、蠣崎氏がアイヌの首長と同盟したことが背景にあったといわれています。

1514年(永正11)、蠣崎光広・良広親子は松前大館に移り、秋田の安東氏から蝦夷が島の守護として認められます。こうして蠣崎氏は蝦夷が島における和人の覇者としての地位を確立したのです。ただし蠣崎氏は完全に独立したのではなく、安東氏の配下として諸国から入港する商船の関税を安東氏に上納していました。

和人とアイヌの争いは、1550年(天文19)にようやく終止符が打たれます。蠣崎氏は東部シリウチのチコモタインと西部セタナイのハシタインと相互協定を結び、蝦夷が島に来航する和人商船から集めた関税を両首長に分配することが定められました。一方、アイヌ商船は関税を払う必要はなく、フリーパスで通過することができたといいます。和人側の大幅な譲歩によって和平が実現されたのです。この頃から蠣崎氏は若狭の守護武田氏との外交関係も結びます。蠣崎氏を継いだ武田信広は、実際には蝦夷地に流れてきた浪人だったようですが、武田家との親交を結ぶことで自らが由緒ある家柄であることをアピールしたのです。これは安藤氏が自らを蝦夷の出自とした認識とは大きく異なるものです。若狭の武田氏は新羅三郎義光の出です。蠣崎氏(もと武田氏)は源氏の子孫と内外に宣伝することで、蝦夷が島を支配する正統性を確保しようとしたのです。

余談ですが日本国の東の果て、外が浜にはしばしば「人魚」が出現したといいます。鎌倉時代、津軽近辺に人のかたちをした大魚が漂着したとの風聞が鎌倉まで流れ、大騒動になっています。「人魚」の出現は不吉なこととされ、汚らわしい存在として考えられていたのです(ここも参照)。それは日本の境界の外側が、人ならざる者、物の怪(もののけ)が住む世界としてとらえられていたことと関連します。西の境界が“鬼界”が島とされたのも、日本の外である琉球諸島が人ではない「鬼」の住む世界として当時の日本人に観念されていたからです。外が浜の「人魚」(実際にはオットセイなどの生き物と考えられています)のとらえ方は、琉球で同じ「人魚」のジュゴンが聖なる生き物として考えられていたのとは大きなちがいです。
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